第六話

(全く、ヒヤヒヤさせやがる…。)
ブロウは内心そんなことを軽く呟きながら廊下を走った。
壁は左右ともグレーのコンクリート剥き出しで壁紙みたいな
洒落たものは貼られていない。
廊下も薄いベージュだか何だか、土足禁止の学校やオフィスで
よく採用されているような素っ気無い色のリノリウムだ。
天井に並べられた蛍光灯も裸で、所々切れそうに点滅しているものがある。
ただ消化器の赤と非常口の緑だけがやけに目立つ、
そんな殺風景で人気のない廊下。
そう、ここは地下ボクシングが行われている建物の一部なのだ。

今日は若手選手のセコンドを任されてここに来たが、
試合の結果は辛勝という他はなかった。
2回もダウンを奪われ、半泣きになったところを激励し続けるブロウ。
街のチンピラ程度でイキがっていた喧嘩屋も、
一旦リングに上がればこんな扱いになることも珍しくはない。
何とかラッキーパンチで相手をマットに沈められたものの、
再開される練習では『課題』の克服に追われることになる。
まさかここまで出来が悪いとは思わなかった。
まあ、これはただただ弱いから、本人の練習態度が悪いとか
そういうものでもないので、トレーナーでもあるブロウが
弱点補強させることになる。
そんなわけで、試合後の手当てやら何やらをしているところに、
パルウェイ会長が携帯の着信音を鳴らしたという訳だ。

「そんな小さなコト、他のペーペーにやらせ………」
とつぶやきながら、用件のある場所に急いでいると、
これからか試合会場に向かうであろう一人の選手とすれ違った…。
「ん…?あいつは?」
選手の容姿が何故か妙に気になって慌てて振り向いた。
ホワイトタイガー、勿論ここにいるということは獣人なわけだが、
とりあえず若いというよりまだ幼さすら感じる程だ。
多分まだ20才になったかなっていないか…。
シックルと同年齢ぐらいかと感じられた。
暗い緑色のサテン地の光沢のあるガウンで肩からヒザまぐらいまで隠れ、
しかも後ろ姿しかもう見えないから断定はできないが………。

「…………ケルギン!?」
ブロウはハッと記憶の糸を手繰ってその名前に辿り着いたが、
さすがに駆け戻ってさっきのボクサーの前に回り込むのも
不自然だと判断し思い留まった。
それから言われた用事を思い出し、振り切るように階段を登った。

数分後…。
その『小さなコト』が済んだやいなや、
ブロウはまた階段を駆け降り、試合会場に戻った。
「チッ!」
軽く舌打ちをする。当たり前と言われればそれまでだが、
既に選手紹介は終了して、試合が始まっていた。
あのタイミングならそれも仕方がないのは理性で充分分かってはいたが。
しかしそんなことはすぐにどうでも良くなった。
何せ今、トランクス一枚のその選手の姿を
はっきりと見ることができているからだ。
それも御丁寧にライトに照らされハッキリと。
その肉体は自分やシックルのものとは違い、よりしなやかな曲線で
どこか女性的ですらあった。
勿論それはトレーニングによって鍛え抜かれた筋肉によるものだが、
しかしその表情はあどけない。
全身を総合的に見れば何とかシックルと同い年ぐらいには見えるが、
その顔つきといい表情といい、中学生だと言われても違和感がない。
しかしその顔は確かに記憶にはっきりと残っている。
だがそのファイトを見るにつけ、かなりトリッキーではあるものの、
かつて表のリングでグローブを交わしたライバルであり親友の虎獣人の
ボクサー、そしてその横にいたホワイトタイガーの少年のことを思い出した。
その時はまだ小学生高学年か中学生ぐらいだったような気がするが………。
チラホラと彼の戦闘スタイルから見え隠れするその親友のスタイル、
そして当時の試合を思い出しては体の芯が熱くなってきた…。
「やっぱり間違いない…。あいつは…。ガイスの弟…ケルギンだ!」
ブロウがそう確信した途端、ケルギンの右ストレートが
彼より重量のあるミドル級らしい対戦者の腹をズシンと抉った。
ズダン!とマットが派手に響いた。
へへっ、という得意げな表情で見下ろすケルギン、
レフェリーに促されてようやくニュートラルコーナーへ向かった。
しかし勝利が分かりきったような表情ではしゃぎ気味ですらある。
カウントが始まった、がブロウはカウント5の声を最後に会場を後にした。
廊下でゴングの派手な音と歓声が轟くのが背後から聞こえる。

(翌日)
「………マティーニで良かったか」
「いや、今日はやめておくよ。」
そうは言うが表情は柔らかい。
体格の良い虎の獣人はそれからソフトドリンクのメニューに
視線を落としている。
らしいな、という表情のブロウ。
手のいい小型スピーカー、勿論キャビネットは木製だが、そこからは
ゆったりとしたペースのクラリネットによるジャズが朗々と鳴っている。
CDのチョイスは店主であるパルウェイのもの。
シックルを今日は店を休ませたのにはそれなりに理由があった。
ブロウがグラスを交わしているのはその親友、ガイスだった。
「しかし、相談お前の方からがあるとは…珍しいこともあるな。」
「ん?あぁ…。」
苦笑するブロウにガイスは怪訝な表情を見せた。
「弟の………ほら、何てったっけな。あのチビは元気にやってるのか?」
「あ!?…あぁ…。」
まさに自分が切り出そうとした話題の主を相手から出されて、
口が開いたままになるガイス。
ブロウはわざと名前を失念したフリをして見せる。
「随分と奇遇だな、実はその弟のケルギンの事なんだが…。」
「うん、ケルギンだったな。もうアレか、高校を卒業してどうしてる?」
ブロウはストレートのまま、ラベンダーをきつくした
香りのする褐色の液体を流しこんだ。
わざとボクシングの話はしないでおく。
「ああ、出来が悪かったものの、高校ぐらいは3年で卒業したさ。
 だがあんな高校でもついていけないぐらいだからまあ……。」
「オマエの弟だからプレッシャーもあるんだろうよ、そんなに言ってやるな。」
そうは言ったものの、ガイスがそう言い回すということは
本当にまずかったのか。
もっともガイスは高校のアマチュアボクシングでも名前を挙げていたし、
通っていたのは地域では最難関とされているランクの進学校。
そしてそのままスポーツ推薦で一流大学の法学部に進み、
続けてアマチュアの世界で武勲を積み重ねてきた、
色んな意味でのエリートだった。
その気品ある礼儀正しい物腰、そしてそれに相応しい、
まるで王族のようなマスクは当時のプロボクシング界でも多くの耳目を集めた。
勝っても決して奢らず、粗野でひどく礼を失した相手の挑発にも
眉一つ動かさない冷静さ。
そしてどんなラフファイトやグレーゾーンの多いファイトに対しても
徹底したクリーンファイトで応じ、しかし確実にその狼藉のツケは払わせる。
それらの言動はまさに王者のものとして相応しいものだった。
もっとも王座にはまだ『手が届く範囲』でしかないが。
試合直後のインタビューに対しても、明らかな笑顔までは決してみせず
あくまで謙虚に、そして敗者の名誉感情を傷つけぬような言葉の選び方をする。
ブロウにとってはちょっといけすかない存在であった。
もっともそれはガイスと拳を交える以前までの事だったが…。
「いや、あんな弟がいたら、お前も俺と同じ事を言うだろう」
ガイスが一人称に俺、を使うことでブロウとの心理的距離が分かる。
「そういうもんか………まあ、俺も学生時代の成績は誉められたもんじゃ
 なかったからどうだか分からんよ。で、今は何やってるんだ?
 まあ、その口ぶりじゃあ大学生ではなさそうだが…。」
ガイスも出されたグレープフルーツのジュースに口をつけてから
「いや、あそこの商業大学にやっとな…。」
「あ、あぁ…、あそこな。」
ブロウはなるほどなと納得して頷いた。
ガイスの通っていた、語学教育に定評のある難関ミッションと大きく違い、
ケルギンの進んだところは大学とは名ばかりで、不合格になるのは
ガイスの大学に合格するより難しいと揶揄される程だった。
「えっ、じゃあ……。」
「ああ、遂に一人暮らしじゃなくなってしまったよ…。」
ガイスは元々はこの街から遠く離れた地方の出身者だったが、
大学からずっとこっちで気侭な生活を続けていた。
そこに飛び込んできたのがケルギンというわけだ。

(数年前のガイスの実家)
「なぁ、いいだろぉ、下宿つっても街じゃ家賃すげー高いんだからさぁ!!」
「そんなに大学に進みたいなら俺が勧めたあそこがあるだろう、
そこに入ればいい!」
「オイラじゃあんな国立大学、合格できっこないよぉ〜!!」
それは事実そうだろうが、そもそもケルギンが本気で大学で何かを
勉強するつもりなどさらさらないのは分かっていた。
その魂胆というのが、結局自分と一緒に暮らしたいということに
尽きるのだからだ。
「父さんも何か言ってくれませんか……。」
「ハハハ、いいじゃないか。お前はボクシングの特待生だったから、
 4年間学費も要らなかったし、下宿と言ったって校内の学生寮。
 おまけにバイトで殆ど仕送りも要らなかったし、学費なら問題ないぞ。」
「そうよ。折角ケルギンが真面目に大学に行こうなんて気になってるのよ。
 お兄ちゃんも応援してあげないでどうするの」
両親にこんなことを言われては反論もできなかった。
これからは大事な試合の度に小遣いで試合観戦のためにちょっとだけ
ガイスの部屋に遊びに行くなんてこともしなくて済む、
とあって上機嫌のケルギン。
「全く…………!!!」

「で、あのやんちゃ坊主を持て余してるってワケか?」
「…………要約しすぎだが、まあそんなところだな…。」
イカと海草のサラダはドレッシングがちょっとスパイシーだった。
「もっと具体的に言うとだな、アイツもボクシングをやりだしてな…。
 まぁ、俺が言うのも何だが…あいつも相当な才能を秘めている…。」
「ほう、それが何か?」
知らないフリをするのもいい加減疲れてきたし、
何よりそんな自分が滑稽ですらあった。
「いや………こう、裏試合ってヤツに手を出しているようなんだ…。」
「ふむ……。」
やはり昨日リングの上で見たホワイトタイガーのボクサーは
ケルギンであったのは間違いでなかった。
ブロウはベーコントマトサンドを注文した。
ちょっとマスタードとクレソンが多めの奴だ。
「何というか………裏が悪いとは決めつけたくはない。
 現にお前がそこで現役で居る所なんだからな…。」
「ああ、いや構わんよ、遠慮なく続けてくれ。」
「別に裏のリングに上がることを怒っているのではないんだ…。
 あいつもあんな性格だ…。俺みたいに真面目にジムに通って、
 苦しいトレーニングや減量をしてプロボクサーになろうなんて
 までは考えてはいないだろう…。
 俺が許せないのは…ボクシングを効率のいいバイト…。
 悪く言えば金儲けの手段として捉えている心構えがな…。」
「ズバッと叱りたいが、気付いてるって言い出しにくいという訳か?」
「…………あぁ…。」
ブロウから皿を差し出されて、ガイスもそれを有り難く頂戴する。
またしてもちょっと辛口の味付けに戸惑うガイス。
と、そのサンドイッチを差し出したパルウェイが口を挟む。
「それなら一度、ちょっと痛い目に遭って貰うのも必要じゃないかの?」
普段なら経営者であるパルウェイがカウンターの中にいることなど
ほぼないが、今夜は違う。
「あっ、貴方は……!」
そこでやっとカウンターのマスターらしき男がブロウたちのジムの会長だと
いうことに気付くガイス。
「話は聞かせてもらったがの。それならウチの新人に随分と有望なのが
 一人おる。………やらせてみるかい? もっとも、弟さんとやらも
 相当鍛えてないと、痛い目だけじゃ済まんかも知れんがね?」
「……………」
ガイスはしばらく黙ってから、急にクックッと笑い始めた。

「なるほど、ブロウも随分人が悪いじゃないか。」
「えっ………な、何の事だ!?」
まずい、俺と会長の思惑がバレたか、と狼狽するブロウ。
待ち合わせの場所をここに指定したことも、わざと今日のカウンター係だった
シックルを休ませてパルウェイが入ったことも全部計算づくだったと知ったら、
ガイスといえども激怒するに違いない。
普段冷静で温厚なだけに、怒らせようもんなら………。
「あっははははははは、俺が気付いて無いとでも本気で思ってたのか?」
「えっ、あっ、いやその何だ、でも俺たちはケルギン君の
 しょ、将来をだなぁ!?」
「いやいや、さすがに会長さんまでグルってのは思わなかったが、
 ずっとお前の目が泳いでたから何かあったことぐらい分かってたよ。
 コイツは何か知っている、とね…。」
もうこれには返す言葉がなかった。
「かなわないな、お前には…。」
全部ハメられたように見せていた演技だったというわけか。
「いや、笑いを堪えるのに苦労したよ、途中からね。」
堅いと思っていたガイスがここまで洒落の分かる男だとは。
やられた、という表情のブロウだった。
「いいでしょう。まあ、しっかりあのイタズラ坊主にお灸を据えて
 貰うとしましょう。会長、ありがとうございます。
 こっちも話が早く済んで助りました。」
柔和な表情のガイス、こんな半分だまし討ちみたいなことをされれば
普通は少しは不快感を口にするだろうに。
「いやこちらこそ持って回ったような事をして済まなかったな。」
「御気になさらないで下さい。では、もう夜も遅くなりすぎました。
 この辺で私は失礼させていただきます。」
時計はまだ9時を回った頃。
早寝早起き、試合前もほぼ減量などしなくて済むらしい
ストイックなガイスらしい行動だと思った。
そういえば今夜もアルコールは口にしていない。
「ああ、まあまた逢おう…。」
「では…。」

ドアが閉まるのを見送ると、カウンターに戻ったブロウは
「ふう、アイツも本当に怒るとかって感情、あるんですかね会長。
人が良すぎるというか何というか、まあそういうのがアイツのね……。」
フッ、と笑ってグラスに口をつけた途端、ハッとして立ち上がった。
「あっ、あの野郎、飲み食いした金、払ってねぇ!!!」
「…………ま、ブロウの奢りってとこだな今夜は。」


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