第五話

「…………全く」
口を真一文字に結んで腕組みをしたままのブロウ、その両目は
閉じて話し合いすら拒んでいる。
こりゃ困ったわい、とどう懐柔したものか考えあぐねてあてもなく
中空を見上げているパルウェイ。
他の練習生たちはとっくに帰ってしまったジムのオフィス。
シャワーを浴びてさっぱりしているはずのシックルも、
どこに視線を向けていいのやら困惑した様子だ。
座った人間の膝程の高さのテーブルを挟んで、
向かい合うようにソファーが配置されている。
一方にはシックルとパルウェイ。
そしてもう一方にはブロウがデンと座っている構図だ。
ピリピリと緊張した鉛色の空気、その重圧感に耐えかねて
「あの、僕…。ちょっと外の空気吸って来ます…。」
と腰を浮かせたシックルに、
「この状況から逃げられると思うなよ!」
と決定的な一言をブロウは浴びせる。
席を立つことすら許さないという姿勢にシックルもほとほと参ってしまった。
取りつく島もないなとパルウェイは懐の葉巻きを探ったが、もうない事に気付く。
手持ちぶさたなうえにこの雰囲気、ジムのオーナーは自分なのに、
何故雇われのコーチに圧迫されなきゃならんのか、という理不尽さ。
「俺の承諾もなく、いきなり裏の試合を見せたって事が
気に入らないと言ってるんですよ!おやっさん!」
その言葉の切っ先はしっかりとパルウェイに向けられている。
まずい、と察したシックルが、
「いやあの、何ていうか……僕、別に無理してどうっていうことはないんです…。
 勝手に後をついて行ったのも今から考えたらすごく失礼な話だし…。」
「それはワシが先導したのを付いて来ただけじゃろぅ…。」
咄嗟にパルウェイがかばうように口を挟んだ。
壁にかけた色気のない事務的な時計の秒針の音が妙に煩わしく感じる。
「いやいや、悪いとは感じとる。ただ、いつかは明らかになる事じゃろうに…。」
「おやっさん!そういうことを言ってるんじゃないんだよ!
 言うに事欠いて、シックルが裏に行きたいなんて言い出したらどうする気なんだよ!」
その言葉の先が上手く出てこない。

非公式の裏ボクシング。
別に裏だからといって、表より危険性が極端に増すようなものではない
とはいえ、そういう姿をシックルにいきなり見せるというのには抵抗があった。
恥じることではないが、できればこういうことは自分から話したかったのだ。
ましてや、表で現役選手として活躍していたことを知らないシックルとしては、
あれが自分の試合を初めて見る機会だったわけで、
そのたった一度の出来事こんな形でやらせれるというのも何となく嫌だった。
しかし、パルウェイの年齢や地位に似つかわしくないイタズラ心を
咎めるのにシックルまで巻き添えにするのもやはり心苦しい。
それに、パルウェイの行動に大人らしさがなかったとすれば、
それをこんな態度で咎めている自分の行動は幼稚ではないのか。
そんな自問自答をするうちに、このまま怒り続けるのも馬鹿らしくなってきた。

「なぁ、シックル…。」
やっとブロウが口を開いた。
二人の緊張感がちょっとだけ解けた、がその後にどういった言葉が
続くのか気が気でもない。
「俺はな、確かに表向きではここのトレーナー…。
 実際は裏のリングで現役だ…。
 だからって別に裏に憧れなくたっていいだろ?
 プロとしてリングに上がりたいという事は、
 ジムに通う者なら誰が考えてもおかしくない。
 街でお前を見かけた時だって『こいつがリングに上がったら…』
 とまで思ったさ。だから、俺はお前をジムに誘ったんだ…。
 スパーリングの時に俺に一発当てた時にはそれが確信に変わったさ…。
 裏のことなんか考えずに普通にプロ目指せよ!
 それなら俺も認める。他の連中だって一緒だと思うさ。」
「ええ…ですが……。」
やっと言葉の表情が和らいだことにシックルもほっとしたが…。
だがまだ問題は山積みだった…。そう、自分が混血で事である…。
ブロウに一撃を与えたのは能力の影響もあってのことなのである。
その事を言うか言うまいか迷っている所だった…。
「ブロウ…。すまんが、彼は表のプロにはなれんぞ…。」
切り出したの、パルウェイだった。
会長の予期せぬ発言にちょっと困惑したような顔で、
「あん?そりゃどういうことだ!おやっさん!」
深く腰掛けたソファから上体を前に倒し気味にブロウが話す。
「彼は、人間との混血だ…。表の規約では、彼は獣人としても人間としても、
 ライセンスをもらうことはできん…。全くもってくだらん規約だがな…。」
「な、なんだと?」
パルウェイの口から告げられた事実に驚愕するブロウ…。
いつの間に、混血であることがばれていた事に
ブロウ以上に驚きの表情をあらわにしているシックル…。
しかし、パルウェイにとってこの点も先延ばしできないだろう、
と決意しての一言だった。
「あ…………、か、会長…。」
言葉が出で来ないシックル…。
「まぁ、落ち着け、シックル君…。ブロウとのスパーの時…、
 ワシは君のその隠している右目が見えてしまってのぅ…。
 恐らくその時、何か混血独自の能力があったのだろう…。
 それでも奴に一撃を入れることができるのは相当なボクシングセンスの
 持ち主である判断できるぞ…。実際、能力に頼ってリングに上がれるほど
 ボクシングの世界は甘くはない…。」
パルゥエイはソファーから立ち上がり、話を続けた…。
「昨日も、ワシに見つかる直前に何かをしていたのもそうだろう…。
 だが別に君が混血であろうと、何か特別な力を持っていようと、
 ワシのジムに通う一人のボクサーと見ているよ。」
よどんだ空気を入れ替えようと、窓の一つを半分ほど開けた。
「さて、少し空気を変えよう、どうもこの歳になると、
 長い時間こういう空気は堪えるわい。そうだ、シックル君、
 コーヒー頼めるか…。仕事の時のように美味いのを淹れてくれ…。」
「あっ、はい…。」
やっと席を立つことができた。
スッと立ち上がると、奥でコーヒーメーカーを操作しはじめる。
「ブロウ…。お前もそんな難しい顔せんと、それこそ外の空気でも吸ってこい」
「は、はぁ…。」
やっと本来の、ブロウより上の立場関係でものが言えたパルウェイ。
勿論普段ならこんなことなど絶対にあり得ないが、ブロウという男も
一旦頑固にものを主張しだしたらテコでも動かないところがある。
今回みたいな場合がそうで、こうなると相手が目上であろうと何であろうと
なかなか扱うのが大変なのだ。

コーヒーを入れながら、またしても自分の出生について考え込む。
やっぱりまた壁にぶつかったか。
最初の壁は小学校の頃にあった仲間はずれ。
その年齢の子供の社会ではよくあることだし、そんなものは血統関係なく
殆どの者が一度や二度みんな経験する事だ。
それより一番大きかったのは両親の早死にということだろう。
それからどうも、自分という人間がこの世に生を受けたこと自体が
いけないことだったんじゃないか、という観念が常に自分を支配していた。
別に自殺願望というものはないが、一番アイデンティティとか
自意識といったものが気になる思春期のあいだ、
その問題がシックルを解放した日はなかったといって良かった。
次第に高校でも目立たない存在として振る舞うようになり、
そういうわけで進路といっても具体的に見定められないまま
今日まで来てしまった。

しかし、パルウェイにそれを告げられることによって、
自分が今こうした考えに走るであろうことを何より避けたがり、
彼なりに配慮している訳だ。
だが現に今、彼が最も避けたいと思っていた感情に浸る自分がいる。
(いけない!)シックルは首を左右に激しく振った。
プロセスはどうあれ、そんな心境でいることはブロウやパルウェイなり
の不器用な思いやりを蹂躙してしまうことになる。
とりあえず今は余計なことを考えるのはよそう。
きっとコーヒーにしたって、それは紅茶でも、何ならカクテルでも
どうでも良くて、パルウェイとしては自分の気を紛らわせる
作業をさせたかっただけなのだ。
そんな二人の配慮を考えながら、ブラックのコーヒーを
白磁のカップに注いでいく。
「入りました、会長」
「おう、御苦労さん。おーい、ブロウ、美味いコーヒー冷めちまうぞ〜!」

グイッとそれを流し込む一同。
「それで、だ。ここからはシックル君、君次第なんだが…。」
「はぁ…。」
「さっき言った通り、お前さんはプロは無理だ。………表のはな。
 ただし、裏ならばワシの力でいつでもリングにあげてやれるぞ。」
「!!!!」
ブロウはビクッ、と右手を震わせて、ちょっとコーヒーが
手の甲に散ったことに顔をしかめた。
「おやっさん………」
「オイオイ、今も裏のリングに立っておるお前が止める
 義理は無いだろう、違うかい?」
「そ、それは………」
ここまできたらパルウェイの独壇場だ。
もうそのまま黙るしかないブロウ。
ブロウとしても、自分の言いにくいことを代わりに言って貰えた分、
精神的には楽ではあった。もともとそういう意図があったから
試合会場に連れていったというのもあるだろう。
「但しだ、それなりの覚悟ってヤツはして貰わないと困る。
 それなりの危険は伴うし、また対戦相手も並み大抵じゃなくなる。
 そこは分かるな?」
「………はい。」
シックルは短くそう答えた。
すっとパルウェイを見上げるシックルの表情はどことなく明るかった。
黙って頷くパルウェイ、どこか決まり悪いそうに
斜横を向いてうなじを掻くブロウ。
「それはいいが、明日からの練習はハードになるからな!!!」
「ハイ!!」

1時間後、シックルはジムから帰り、ブロウとパルウェイは
ジムの戸締りをしていた…。
「まだ、いまひとつ納得していないようだな、ブロウ…。」
表情から悟られたか、しぶしぶとブロウが答える…。
「ったく…。昨日といい今日といい驚きの連続ですよ…。
おやっさん、本当にシックルの奴…裏でやっていけるのか…。」
「ふふふ…、要らぬ心配だな…。いずれにせ彼はリングに上がるさ…。
 彼の血がそうさせる…。」
そこには妙にうれしそうな表情のパルウェイが居た…。


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