第三話

「えっ、いきなりですか?」
「ハハハ、ちょっとどれぐらいセンスがあるか見たいもんでね。」
ブロウはそう笑うと、上半身のシャツを脱ぎ、グローブをはめ、
さながらプロボクサーの試合と同じ格好になった。
「さぁ!遠慮なく打ってきていいぞ!」
「そ、そんなぁ…。」
幾ら何でも無茶だ、とシックルは思った。
それも無理はない、普通こういう時には経験者でもない限り、
ロードワークや縄跳びから入るものだろうに。
そんなことは経験のないシックルでも充分に分かることだ。
ちらっ、と会長を不安そうに見ると、親指をグイッと立てて笑っている。
いったいどういう流れなんだ、全く…。
言われるままに用意されていた、グローブやらトランクスやらの装備を身につけさせられ、
スパーリング開始のゴングが鳴った。
遠慮なく打ってきていいぞ!と言われ、ジャブを数発打つが、
そんなものがプロとして飯を食ったことのある者にヒットする筈も無い。
所詮は街のチンピラ相手の強さでしかないのか、と思い知らされる。
(そんなことはやらなくても、僕にも充分に分かってるさ…。)
そもそもが、どこまでブロウが喧嘩の経緯を把握できているのか、それすら怪しくなってきた。
あれが自分から仕掛けた喧嘩で腕力自慢ならこんなことになってもある程度の
納得はいくが、いかんせん自衛のためのことだったというのに。
街で喧嘩だからワルで、そこでボクシングでもやらせて更正だの根性を叩き直すだの、
そういった短絡的な考えかどうかはさておいても、
自分がそういう誤解をされているのは何か悔しい。
自分もそうしたチンピラと同一視されていたということか。
だからリングの上でこうして勝てるはずもないスパーでお灸でも据えられるのか?
理不尽だ!!

「どうした?本気でかかってこい!!」
少し苛立ったようなのブロウの声…。違う、考え事とかという前に、体力が持たないのだ。
カン、と1ラウンド終了のゴングが鳴った。
「ハァ…ハァ…。」
「シックル君…。なかなか動きはいいようだな、んん?」
パルウェイの評価はそんなに悪くないようだ。
息を切らせたまま、誤解を解こうと説明しようと思ったが、激しい運動で
酸素不足の脳ではどう話していいのかも思い付かない。
「ハァ…ハァ…あっ、あのっ…。」
「いやいや、悔しいだろう?毎度、お前さんみたいな荒くれ者はいざスパーリングを
やってみたら、全然当たらずにびっくりするもんさ。試合観戦とかしていてあんな位
なら俺にだって、思う奴が多くてな…。」
人の言うことはちゃんと聞け、そう思ったがその説明がうまく口から出てこない…。
文字どおり話にならない。
シックル本人としては、ただ仕事が欲しいだけ、生活が安定しさえすればそれで良かったのだ。
「まあ、ボクシングでもやろうって奴はそれぐらいの元気がないと駄目だけどな、
まあ、頑張れ。ハハハハハハ…。」

言いたいことだけ言われてしまい、第2ラウンド開始のゴングが鳴る。
「そ、そんな…。」
間近で、それも対戦相手として見たブロウの威圧感たるや、まさにヘビー級という
単語のイメージそのもので、打ってこないにしろ、余りにも強大すぎた。
「どうした、どうした?もっと手を出してこい!!」
「うぅっ…ゼェ…ゼェ…。」
激しい息の中、ガードされるのも構わずがむしゃらに連打し続け、次第に顎が上がってくる。
まるでダンスでも踊らされているようで、それがシックルの羞恥心すら刺激しはじめていた。
初心者どころか未経験者がサマになるはずなんかないのに…………。
自分でもそう分かっていながら。
と、一瞬シックルの脳天にある映像が浮かんだ。

『ブロウは右を出す。』

前髪越しにエメラルドグリーンの右目が確かにそれを察知した。
 ―オッド・アイ―
普段使っているプラチナブルーの左目と前髪で隠しているエメラルドグリーンの右目。
獣人と人間の混血児の証、そしてその能力とは………。

「パァン!!」
とブロウの左胸にシックルの右ストレートがクリーンヒット!!


ジムのギャラリーがザワリ、とどよめく。

予知能力、それが神がシックルに与えたものだった。
馬鹿な、という表情のブロウ、しまった、と後悔した表情のシックル。
ちょうどそのとき2ラウンドが終るゴングが鳴り、スパーリングは終了した。

「お、お前スゴいな…………!!」
「…………いや………。」
「まるで俺が軽く一発打ち込むことが分かってたみたいだった………。」
ひどく狼狽したようなことが声から読み取れた。
「いやその、あれは…………。」
ボクシングでそういう手段を使うのはアンフェアすぎる、とシックルは強く自分を責めた。
咄嗟とはいえ、リングで使っていいことじゃない。
「すいません、僕………今夜は帰ります。」
「あっ、オイ!」
顔向けできない、というのが正直な気持ちだった。
「フム…………。」
パルウェイはブロウを制止すると、シックルをそのまま帰した。

スピーカーからはジャズのクラリネットが小気味良く響く。
レプリカランプの間接照明で薄暗く照らされた店内、
カウンターの中にはシェーカーを振るシックルの姿があった。
「チャイナ・ブルーです、どうぞ…。」


注がれた不透明なセルリアンブルーの液体は、とろりとライチの香りが漂う。
「大分サマになってきたじゃないか。」
パルウェイが笑いかけると、シックルは
「いえ、自分はまだまだなんで…。」
とそっけない言葉ではあったが、表情は僅かに嬉しそうだった。
入店してから2週間、従業員寮として新しい住まいを与えられ、
最初は欠員埋めのために変則シフトで、受け持ちも調理や雑務
だけだったシックルだったが、それからすぐにバーテンとしての技能も上から教えられ、
気がついたらこんなことになっていた。
夜の飲み屋とはいえ、ここにはホステスのような類の者はいない、
正統派のバーだというのも気に入っている。
昼間のカフェも珈琲が旨いし風通しのいい雰囲気が気持ちいい。
あれっきりジムには顔を出していない。
だからブロウにも会ってないし、また支配人のパルウェイもジムのことを一切口にしないままだ。

気まずい。
ブロウから手渡されたグローブは部屋の壁に吊ったまま、
後で届けられたトランクスやらシューズ等の用具も殆どそのままであった。
そして何も言わないパルウェイの配慮が逆に重たかった。
「あっ、あの……………。」
「ああ、今日はもう上がっていいぞ。」
「えっ?」
「ちょっと今夜は野暮用でね、ワシがいなくなったら一人で店やれんだろ?」
「あ、はぁ、スイマセン…………。」
そう言われれば食い下がる訳にもいかない。

帰り道、いつものようにスラム街を通っての帰宅途中。
人通りが少ない灰色の通りは、夜の10時を回って一層もの寂しい感じだ。
丁度、あの日通っていた町並みのように………。
と、シックルはハッと意外なものを見てしまった。

「ブロウ…………さん!?」

幸い気付かれてはいないものの、後をつけるのは気が咎めた。
どうしよう、と思っていたところで、廃虚に近い建物にブロウは消えた。
他にも断続的に男達が入り口に飲み込まれていく。
謝らないと、シックルは思った。
本当なら駆け寄って先日の非礼を詫びたい、事情を話したい。
でも、まだその踏ん切りが…………。

シックルの右目がまた、緑色に輝き始める…………。
「チッ………仕方ないか…………。」


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