第四話

右目に意識を集中させるシックル。
本来、こんな風に生まれ持った能力………
予知能力を使うことはしたくなかった。

獣人と人間のハーフとして神がシックルに与えたのは、近い将来を見通すエメラルド色の右目だった。
幼い頃からそのことで、見えなくてもいいものばかり見えてきた。
一番衝撃的だったのは、両親の死期…………。
そのことを人に話す事は滅多になかった。
少なくとも年齢が2桁になってからはまず1度も無かったはずである。
自分の意識である程度コントロールできるからこそ、
こういう使い方は下賤極まりない覗き趣味のような気がして、シックルの中では強い葛藤があった。
しかし、後まで尾けておいて、今さら下賤もないだろう、とやっと心の中で気持ちを割り切ると、
無言で道ばたで能力を開放し始めた。


―――。
割れんばかりの声援が場内に響いていた。
間違い無くここはボクシングの試合会場、
赤コーナーに雄々しい眼差しで座っているのは他でもないブロウだった。
―――。

「!!!」
ジムのトレーナーをしているはずの彼が何故こんなことに!?
そして明らかにプロの興業の形をとっているはずなのに、
何かが違うのは何故……………。
一瞬では状況が正確に飲み込めないままのシックル、
しかしドクン、ドクンと胸の鼓動が高まっていくのが分かった。
オスとしての闘争本能なのであろう、ということは分かった。
でもこれは………。
「尾行とはお前さんらしくないな…。」
ハッと振り返ると、そこには半笑いのパルウェイ会長。
ダブルのダークスーツ姿ということは、多分夜にやっているバーかカジノの見回りの最中だったのか。
「ああっ、あの…。」
人との接触を避けていた時間が長過ぎたせいか、元からそうだったのに
輪をかけて口下手になってしまったことを思い知るシックル。
まさか無言で走り去る訳にもいかず、闘争心の燃え上がりから唐突に
頭から氷水をかぶったかのような緊張という感情の起伏に戸惑っていると、
「気にするな、まあついて来なさい。お前さんが気になっている事について
 教えてあげようではないか。」
上手い弁解が思い付かないことなど意にも介さないパルウェイの
懐の深さにホッとしたものの、今度はこれから自分がどういった場に連れて
行かれるのかという不安がよぎる。
しかしこうなってしまった以上はついていく以外の選択肢はないのだ。
入り口は一応、映画館や遊園地の、という例えを出すには余りに
係員のガラが悪すぎるが、ゲートが設置されている。
二人の姿を認めると、クイッと顔を上げてパスカードの提示を求めようとして、
その相手がパルウェイと分かった途端、慌てて口調が丁寧になった。
「ああっ、これは会長お疲れ様です!!」
「………うむ、お疲れさん。どうだ今日の客の入りは?」
「へい、今日は好カードも好カード、お蔭様でいつもの数割増しでさぁ!!」
「ふむ、結構、結構…。」
自分と同じ狼系か、と係員に目をやるシックル、しかし声をかける気にはなれなかった。
もっとも相手も、パルウェイの横にいるシックルという存在にどう対応して
いいか分かりかねている様子だったから支障はないと言って良かった。
パルウェイはスーツの内ポケットから認証カードらしきものを取り出し、
防火用かと思うような分厚い鉄の扉の脇にあるスロットに差し込んだ。
それから何らかのコードをボタン入力すると、ガシャッ、と解除の金属音と
同時に赤いランプがグリーンに切り替わり、重々しく扉が開いた。
この先にどんなものが待ち構えるのか。
薄暗いグレーの通路にシックルは言い知れぬ不安を感じていた。

打ちっぱなしのコンクリートの壁に囲まれた内部の通路はまるで
大型ショッピングモールの地下駐車場のような殺風景さだ。
老朽化されたビル内部、ここが以前は何だったのか知る術はない。
カツン、コツンとパルウェイの質のいい革靴の踵がリノリウムの
床を叩く音が響く。
避難通路を表すグリーンのピクトグラム照明や、逆にまだあることが
驚いた火災報知器の赤いランプが目立つ薄暗さ。
蛍光灯はところどころ切れたままだ。
「…………。」
無言のまま、重苦しい時間が過ぎる。
「そんなに緊張しなさんな…。」
「………。」
「空気で分かるよ。まあいい、それだけお前さんが真面目な人生を
 送ってきていたのだと分かったよ。」
真面目、と評価されたのも多分生まれて初めてだったんじゃないだろうか。
まあ、意味合いとしては不良じゃない、ということが言いたかったんだろうが、
ちょっと新鮮な感触がした。
しかしそれから、重苦しい沈黙を破ってくれたというのが、パルウェイなりの
配慮なのだと分かると、ちょっと嬉しい気もした。
「何ていうか、まぁあれだ…。」
「はい?」
「ボクシングやろうなんて奴ぁ、大抵が荒くれ者でね。手のつけられない不良だった
 とのいうのが多いものさ、特に街角で喧嘩してたなんてな。」
ニヤリ、とシックルの脇をくすぐるような台詞回しをして見せるパルウェイ。
「ちょっと…。その件については、勘弁してください…。」
シックルにおどけて見せる余裕が出たのを確認して、
「いやぁ、最初はどんな野郎が来るのかと思ってジム覗いてみたら、全然イメージ違っていたからな、
 お前さんのことだと分からなくてな…。」
「それは…、ただ…降りかかってきた火の粉を払っただけです…。」
「ハハハ、経緯はブロウの奴から聞いてるよ。」
「はぁ……。」
が、そんな他愛もない会話をしているうちに、扉の向こうからの喧噪が耳に入ってきた。
(いよいよ、か…。)
「さぁ入りたまえ…。」
「はい…。」
ドアを開けた途端、シックルは思わず目を細めた。

天井から釣り下げられた照明の白い光が目に刺さったせいだ。
ウワァーッ、という雄叫びにも似た観客席からの声援、そこは
間違いなくボクシングの試合会場だった。
「ここは一体?」
ブロウは既にプロを引退しているはずなのに、間違い無くリングの
上で殴り合っているのは本人である、スタイルもプロの試合そのものだ。
「ハハハハハ、ようこそ地下の裏ボクシング会場へ。」
シックルの疑問を見すかしたようにパルウェイは答えた。
「地下?裏…ボクシングですか?」
無言でパルウェイは頷くと、前列の空席に腰を降ろし、シックルにも座るように促した。
「あっ、はぁ…。」
ワンテンポ遅れてそこに座る。
言葉で説明するよりも観戦しながら察しろということか。
「裏といっても、別に法に触れるような事を大々的にやっているわけではない。
 賭け等は行われているが、世間で行われている規則、規定で固められた
 堅い考えで凝り固まったものとは違うボクシングがここで行われているだけだ。
 まあ、ワシもこの業界が長いんのでね、最初に出会った時からこういう事になるかとは思ってた。
 とりあえず、今はゆっくりブロウの試合を見るといい。」
「はぁ。」

見上げるリングの上で、ドスドスと殴り合うブロウ、闘争心剥き出しの
表情に思わず見入ってしまう。
「す、すごい……。」
考えてみれば、嫌いというわけではないのだが、ボクシングなんて
テレビの中継でしか見たことがなかっただけに、実際にリングサイドで
観戦するのはこれが初めての体験だった。
まるで年端もいかない少年のような目で夢中になるシックルの横顔を眺めるパルウェイ。
右、右、左!!!
ブロウのストレートが連続してコーナーに追い詰められた相手に入り、
その度に汗が飛び散る。
これがヘビー級の試合というものなのか。
「フンッ!!」
ブロウの渾身のストレートが相手の顔面にめり込む。
ドサリ、とマットに沈んだ対戦者、そこですかさずレフェリーが両手を振った。
「カン、カンカンカンカン!!」
そこでゴングが打ち鳴らされた。

場内に漏れるため息と歓喜の声、ギャンブルの明暗が分かれた瞬間である。
カウントすら取られることなく、前のめりにつっ臥したままの対戦者。
セコンドが慌てて飛び出し、あおむけの状態にしてやって、耳もとで
怒鳴って意識を確認している。
「只今の試合、2R1分55秒、勝者、ブロウ!!!」
ワァァァッ、と無数の観客たちの歓声が沸き起こり、多額の金銭が飛び交った。

ハッ、とそこで我に返るシックル。
「どうだ、生で見るボクシングの試合は…。」
「いや…その…。」
人並みかそれ以上に本は読んでいるつもりだが、
どうもうまい具合に言葉が出てこないのがもどかしい。
「ハハハハ、結構結構。まあ、お前さんの目を見れば何が言いたいのかはよくわかる。」
余りに周囲の環境が激動しているせいか、シックルは軽い混乱に陥った。
「まあ今日はもう遅い、明日も仕事はあるからな帰るといいだろう。」
「そう………します。」
「それと、またジムに来なさい…。もし他にも知りたい事があるならば、教えてあげよう。」

パルウェイと別れ、試合会場のビルから一歩出た途端、全身を著しい倦怠感が襲った。
今までの緊張感が一気に切れたせいもあるのだろう、
そして胸を焦がすような興奮があまりに長時間続いたせいだろう。
とにかく昼間の労働によるものとは違う性質の疲労感がズシリと双肩にのしかかってくる。
だけどその感覚が嫌いな訳でも実はなかった。
煙草の紫煙、飛び交うヤジ、渦巻く欲望………。
ダークグレーの退廃的なそれらの要素も妙に興奮していた。
しかしそれ以上に、リングの上で繰り広げられた光景には「興奮」の2文字でおさまらない
「たぎり」と言うものを感じずにはいられなかった…。

両足を交互に引きずるように、シックルは帰路を行った。


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